2022年6月19日という日が終わってしまった。
世紀の一戦と言われた那須川天心vs武尊が行われたTHE MATCH 2022。
この大会は那須川天心という稀有な才能の少年が、大人の常識や交渉のセオリーに捉われず、タブーを現実にしていく様と、K-1という世界に轟く現代キックボクシングの象徴を両肩に背負う孤高の格闘家・武尊の生き様、それら全てが出会う大会になった。
「大人の事情」を壊した2つの才能、2人の格闘家
同じ時代に生まれてしまった2人のキックボクサーは、決して交わることが許されないイデオロギーの狭間で、長く苦しい時間を過ごした。
格闘技というコンタクトスポーツは、はっきり言って”きな臭い”世界だ。
それは格闘技興行に大なり小なり、どんな形であれ携わった事のある人間なら、誰でも知っている。
良いか悪いかを論じたいのではない。
人が人を物理的に殴ったり蹴ったり首を絞めたり関節が曲がらない方向に曲げても罪に問われない競技、それが格闘技であり、格闘技はその起源以来、興行はずっと”きな臭い”世界だったのだ。
それを那須川天心は『大人の事情』と呼んだ。
この試合を那須川天心が直訴し始めて、実際に行われるまでのおよそ7年、想像するだけで疲れてしまいそうな『大人の事情』は確かに存在した。
旧K-1が消滅し、泥水を飲んで生まれ変わった新生K-1は2度と同じ事が起きぬ様に、隙のないブランディング戦略を組み立てていき、その中で3階級制覇を成し遂げ、新生K -1の象徴になっていったのが武尊だった。
一方、2003年大森ゴールドジムでひっそりと立ち上がったRISEというキックボクシング団体に、2014年彗星の如く現れた那須川天心はチャンピオンに駆け上がると、PRIDEの消滅から復活の狼煙を上げたMMAプロモーション・RIZINの拡散力と合わさって、たった1人キックボクサーとして看板スター選手になった。
武尊と天心、7つ違いのこの二つの才能は、格闘技界の離合集散の歴史の隙間に産み落とされた奇跡だった。
過去の歴史と違ったのは、雑誌やテレビだけが個人の意思を表現する場ではなくなって行く時代の夜明けに重なったことだ。
ソーシャルメディアは2人の格闘家の間に存在する『大人の事情』を嫌った。
隠さず断言するが、筆者もその1人だ。
それぞれのストーリーを背負って観る人々の熱気は、インターネットという開かれたプラットフォームで次第に膨らんでいき、クローズドな世界に存在する『大人の事情』を叩いた。
決して許される事ではないが、時には両選手の言動をつまみあげ、格闘技に関係のない人間性や生き方そのものを叩いたりもした。
信者とアンチが目まぐるしく現れては論争を煽り、『大人の事情』はこの対戦を”無かった事”にはできなくなって行く。
とてつもなく長く暗いトンネルを潜り抜け、この大会実現までに尽力した無数の関係者、何より戦いを切望した2人の若者の強い意志によって、時空を超えてTHE MATCH 2022は開催されたのだった。
不思議な話だ。
注目される試合の中には、ややもすると巧みなプロモーションやメディア戦略を絡め、作為的に世間に注目させて行われる試合さえある。
那須川天心と武尊の試合は、その逆の時期があった。
『大人の事情』はこの対戦を実現させない方向にエネルギーを使った時期が確実に存在したし、この対戦を語る事はタブーだった。
そしてこのマッチアップがタブー視されればされるほど、ハードコアな格闘技ファンはSNSで『大人の事情』を叩き、その熱は格闘技ファンでない世間にまで届いて行くようになったのだ。
世間に届いた2人の”熱”と塗り替えられた記録
そうやって格闘技ファンから世間に届いたこの熱気は、東京ドームを埋め尽くし、格闘技興行としては史上最高額と言われたチケットはソールドアウトしてプレミア化した。
20年前に、 60kg以下の軽量級キックボクサーが東京ドームを札止めにして戦う姿など誰に想像ができただろう。
東京ドームに集まった観客は56399人だ。
観客の熱量はかつてないものだった。
筆者はその1人として現地観戦をしたが、驚いたのは若いファンの多さだった。
明らかに往年の格闘技ファンやキックファンではない、2人の青年のドラマを追いかける若者たちが、決して安くないチケットを握りしめて会場に詰めかけていた。
この試合を実現させたエネルギーは何だったのか、理由は一つではないだろう。
しかし、インターネットが拡散させた、この試合の意味を感じとった若い人たちのエネルギーは、確実にその理由の一つなのだと思い知った。
そして、そういった観客の多くは、天心か武尊かのどちらかを応援していたが、試合開始のゴングがドームに鳴り響く頃には、両選手が背負っている物にどちらのファンも理解を示していたのではないだろうか。
会場には、アンチも信者も勝敗も超えた、そういう“美しさ”のような、手にとって物理的に見たり触ったりはできなくても確実に存在する感覚がビリビリと地鳴りのように鳴り響いていた。
それを”熱”と呼ぶなら、血沸き肉踊るバイオレンスな”熱”ではなくて、あまりにも美しい”熱”だった。
地上波無料放送断念がもたらしたもの
それは現地観戦以外の視聴方法にも数字で表れた。
フジテレビはまた別の『大人の事情』で地上波無料放送を断念した。
筆者の感覚では、これは大成功だった。
結果的にAbemaがPPV独占生中継をする事になったが、脅威の50万件を売り抜け、その売上は25億円に達した。
有史以来国内PPV最高販売件数と販売額の記録を塗り替え、セールス的にも『勝った』のだ。
那須川天心も武尊も地上波無料放送に最後までこだわったが、筆者は無料放送以外に子供たちに夢を与える方法として『格闘技で稼げる姿を見せろ』という論陣を前回の記事で展開した。
https://ultrasports.jp/martial-arts-tenshin-nasukawa-takeru-the-match-2022-rise-k-1/
【那須川天心vs武尊】 THE MATCH 2022地上波放送中止で格闘技業界は変わるのか?
結果的に明らかにフジテレビから得られる放映権料よりもPPV収入が上回ったこの大会の意味は大きかった。
今大会のファイトマネーがどういう契約なのかは定かではないが、ファイトマネーのあり方についても、今後はPPVボーナスという形で格闘家自身に販売件数に応じたフィーが支払われるようなビジネススキームが組まれて行くと、より格闘家を志す者にとって夢があるだろう。
この試合がマッチアップされるまでに要した時間はおよそ7年という途方もない時間だが、この時間が稼ぎ出した格闘技界の未来に対する最大の功績は、もしかしたらPPV独占生中継かもしれない。
あと1年早ければ週刊ポストはあの記事を書けなかったかもしれない。
あの記事がなければフジテレビ地上波で普通に放送されたかもしれない。
若者のエネルギーはいつだって無限の可能性を秘めている。
もしかしたら『地上波が無いから』それに対する若者のアンチテーゼでPPVに熱が生まれたのかもしれない。
それに、コロナ禍で観客はここまで動員されなかっただろう。
そういう意味ではあらゆる時代の過渡期で、様々な偶然と必然とタイミングが重なる交差点、それがこの試合だったのだ。
残酷で美しい、それが2人の愛した格闘技
格闘技というのは、必ずどちらかが負ける。
このエンターテイメントの最大の魅力で、最も残酷な事実だ。
チームメイトはいても、リングに上がるのは一人だけだ。
球技のように道具を使ったりもしない。
美しさを競う採点競技でもない。
最低限の防具だけを身につけて、直接お互いを破壊する行為を行なって勝敗を決めるのだ。
このシンプルで美しく、そして切ない、残酷な生き残りを賭けたエンターテイメントが、格闘技だ。
人間が2人、殴り合って見ている者に伝えられる事はあるのか、無いのか。
殴り合う意味はあるのか、無いのか。
那須川天心と武尊。
私たちはこの2つの生き様がぶつかる様を、大勢で見守った。
武尊の敗北にむせび泣いた人も、天心の勝利に歓喜の声を上げた人も、勝った者と敗れた者の両方から何かを貰ったんだと思う。
それは、彼らが貴方に届けたかった物に違いない。
頑張るとか、一生懸命とか、コツコツやるとか、諦めないとか、勇気とか、世間に揉まれて大人の事情に打ちのめされた事がある人には、尻がむず痒くて恥ずかしくなるけど、声に出して照れ臭くなっちゃうような事って、やっぱりキレイで眩しい。
だから、それを見せてくれた2人には最大の賛辞と礼を言いたい。
那須川天心は最後まで那須川天心を貫いた。
足を止めて打ち合ってショーを演じる事などしなかったし、それでこそ那須川天心だった。
そして武尊もまた、武尊のままだった。
”K”のリングでKOの山を築き上げてきた最高のハードパンチャーは、自分の突進力や拳を最後まで疑う事はなかったし、観る者も最後までそう信じて観る事ができた。
断言するが、敗れた武尊がこの敗戦によってこれまでの功績やキャリアに泥を塗るような事はない。
もちろん負けた選手本人は、胸を張ったり、笑ったりできないかもしれない。
互いに死ぬ覚悟でやったのだ、それはそうだと思う。
だが、筆者は日本の若者2人が放つ強烈な個性が、顔も名も知らぬ誰かの胸を掴んで離さなかった事、鼻の奥が熱くなったり、気がついたら大声で叫んだり、痛くなるまで手を叩いたりした事に誇りを持ってほしい。
那須川天心の対戦相手は武尊でなければならなかったし、武尊の対戦相手は那須川天心でなければならなかった。
この試合の”祭りのあと”はきっと続いていく。
2人が共に臨んだ、未来の格闘家や子供達に届けたい物は、ちゃんと届いたのだから。
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