【NPB】野球居酒屋“ぼーるぱーく亭” 9杯目の肴 生涯安打数2730。稀代の安打製造機、Mr. Swallows:青木宣親選手。現役引退、決断の秋…

目次

9杯目の肴 生涯安打数2730。稀代の安打製造機、Mr. Swallows:青木宣親選手。現役引退、決断の秋…

 少し前の話となってしまい恐縮至極の極みなれど、店主の取材活動の中で強烈なインパクトを残したレジェンドとのエピソードをご披露させて頂きたく、このトピックを9杯目の肴として品書きに加える事とします。

2024年9月13日 金曜日

 2024年9月13日(金) ミスタースワローズ:青木宣親選手が、2024年シーズンを以って現役から退く決断をし、同日引退会見が行われた。燕党の心には朝から埋め難い大きな穴が空き、寂しさが感情の大部分を覆いつくしていた。21年間、青木選手はプレーで常にファンに勇気を与え、明日への希望の灯りを点し続けてきた。そのレジェンドが、ユニフォームを脱ぎ、バットを置く。。。

 2003年の新人選手選択会議(プロ野球ドラフト会議)で東京ヤクルトスワローズから4巡目指名を受け入団。早稲田大学の同期には阪神タイガースの自由獲得枠で1位入団の鳥谷敬さんがいた。先輩には福岡ソフトバンクホークスの和田毅投手、後輩には後にスワローズでチームメイトとなる田中浩康さんや武内晋一さんといった錚々たる顔ぶれが揃い、2002年春から2003年秋にかけて東京六大学野球で史上初の4連覇を成し遂げた最強世代の一人。2番センターで打線を牽引した青木選手は俊足・好打の外野手としてチームの勝利に貢献。この活躍が燕軍スカウト陣の目に留まり、2003年のドラフトで指名を受けた。後のMr. Swallows 誕生の瞬間である。

 プロ1年目に発刊された2004年の選手名鑑を見返すと、身長175cm、体重77kg。プロ野球選手としてはサイズに恵まれた方ではなかったが、卓越したバットコントロールと飽くなき探求心で理想の打撃を追い求め、デビュー2年目でシーズン200安打をクリア(202安打)。大ブレークを果たすと、その後もヒットを量産し続け、2010年には自身2度目のNPB200安打を達成した(209安打)。打つだけではなく俊足・好守の外野手としてもチームを牽引。ゴールデングラブ賞7回、ベストナイン7回、盗塁王1回とグラブと足でも存在感を放つ。2012年には海を渡り活躍の場をMLBに移す。ミルウォーキー・ブリュワーズを皮切りに、カンザスシティ・ロイヤルズーサンフランシスコ・ジャイアンツーシアトル・マリナーズーヒューストン・アストロズートロント・ブルージェイズーニューヨーク・メッツと7球団で合計759試合に出場。2014年にはワールドシリーズの舞台も踏んだ。

現地2013年8月9日 金曜日

 海を渡った青木選手に一度だけ、“お目にかかった” 事がある。現地2013年8月9日。店主は別の取材案件でシアトルーサンフランシスコーニューヨークーフィラデルフィアを巡っていた。いわゆる“MLB行脚”である。その旅の中で訪れたサンフランシスコのAT&Tパーク(現オラクル・パーク)でメジャー2年目の青木選手の囲み取材に参加できる機会を頂く幸運に恵まれた。NPBで唯一シーズン200安打を2度記録している稀代の安打製造機はその日、2008年、2009年と2年連続のサイ・ヤング賞に輝いた剛腕:ティム・リンスカム投手と対峙した。2番RFで先発出場も4打数0安打。残念ながら快音を響かせることが出来ず、リンスカム投手の“老獪”なピッチングに翻弄される形となった。事前にビデオなどでストレートの強いパワーピッチャーというイメージを持ったとのことだったが、ゲームではスプリットやチェンジアップを有効に使われて的を絞り切れなかった、と試合後の囲み取材で感想を語っていた。そのスプリットについて。“ナックルボールのように揺れながら落ちる軌道でタイミングを外されてしまった”と、青木選手にはリンスカム投手の一風変わった球筋のスプリットが強く印象に残ったようだった。

サンフランシスコ・ジャイアンツのホーム:AT&T Park(現Oracle Park)

 きっと揺れながら落ちる魔球に最初は“???”と感じたのではないか。コメントの中で意識的に“スプリット”という言葉を多用していたのは、タイミングを外されたボールの正体を見極めた自信から、だったのかもしれない。囲み取材にオブザーバー参加だった店主は、メディアと選手のやりとりを少し遠慮がちに見つめていた。とその時だった。ルーティーンの対応が終わると、背番号7の背中がクルっと反転し、 “挟んでたよね?”と質問を投げかけられた。馴染みの記者でもない、どこから来たのか?何者なのかも分からない店主に、記者さんたちへの対応と同じようなフランクな語り口。一瞬、固まってしまったが、 “青木さんは壁を作らず、自然体で和やかな雰囲気を作る事が出来る人なのでは?” と本能で感じ取った店主は、 “挟んでいたように見えました。打席の後、モニターでスローを確認したら、僕にはそう見えました” と言葉を選んだ。 “やっぱそうだよね!俺も挟んでるって思ってたんだ ” 一言も発せずに、少し距離を取りながら囲み取材を眺めていただけの店主に気を遣ってくださったのか?その場に居合わせた記者全員と同じイメージを共有するためだったのか?真意は定かではなかったが、自分は前者の方だと信じている。その時の青木選手の柔和で温かい笑顔を見れば、誰だってそんな気持ちになる、というものだ。

 打者の習性なのか?次の対戦で同じ手は食わぬ!という強い意志の表れなのか?その日のアウティングで一番納得のいかなかった打席を整理し、修正ポイントをクリアにする。一流ならではの飽くなき探求心に凄みすら感じた取材の一幕だった。意識的に“スプリット”というワードを使っていた背景には、“打席で感じた変な軌道”に対して論理的な裏付けをしようとする思考が垣間見られた。こうした疑問の解明と情報の整理によって作られた知識と経験の引き出しが、ミルウォーキー在籍時の2013年にシーズン171安打をマークするなどメジャー6年間で774安打を生み出すパフォーマンスへとつながった、と店主は考察する。

2018年3月30日 金曜日 シーズン開幕戦 NPBキャリア再スタート

 MLBで6シーズンを過ごし、実績、経験と円熟味を増した2018年、古巣:東京ヤクルトスワローズへの復帰を決断する。2015年のリーグ優勝後は5位、6位と低迷していた燕軍にとって、メジャーリーガーの帰還は待ち望んだ救世主の凱旋となった。シーズン開幕戦では4番に座りチームを牽引。本人が渇望していた優勝、日本一に向けNPBでのキャリアを再スタートさせた。個人的にはNPB単独での2000安打(燕軍復帰時点で1284安打)も目指していた。その一方で、後に中心選手として大きく飛躍を遂げた村上宗隆選手をはじめ若手に範を示しながら次世代の担い手の成長にも尽力し続けた。復帰後3シーズンは優勝に届かなかったが、迎えた2021年、ついに青木選手の宿願が成就する。リーグ優勝を勝ち取るとクライマックスシリーズも突破し日本シリーズへ進出。燕軍は猛牛軍(オリックス・バファローズ)とのシリーズを4勝2敗で制し、2001年以来、20年ぶりの頂点に上り詰めた。

2022年、史上最年少で三冠王に輝いた村上宗隆選手

2024年10月2日 水曜日

 燕軍に復帰後は、常にチームの事を最優先に全力でプレーし続けたレジェンド。そんな青木宣親選手が、2024年シーズンを最後に現役生活に別れを告げた。引退試合となった2024年10月2日のvs錦鯉軍(広島東洋カープ)@神宮球場、1番センターでスタメンボードに名を連ねると、フル出場で満員のファンを最後まで釘付けにした。4回裏にレフト前ヒット、6回裏にはライトへの2ベースとマルチヒットをマーク。広角に打ち分ける“代名詞”のバットコントロールは健在だった。このアウティングを観た全ての燕党員が“まだ出来る!”と感じたに違いない。しかし。背番号23が翻意する事はなく、終わりの時は静かにやってきた。

 試合後のスピーチ。涙を流しながら、一言一言、嚙みしめるように語った青木選手。そして最後に、 “また会いましょう!” の言葉を添えて、ヒーローは神宮の杜の漆黒の闇の消えていった。。。店主はその言葉を心に刻み、いつかまた縦縞のユニフォームに袖を通す日が来ることを信じながら、その晩は一人感傷に浸るのだった。

スタジアムの外でもヒーロー

 これは青木選手のフィールド上のプレーではないのだが、店主には印象に残っているエピソードがある。視覚障害者の競技であるグラウンドソフトボール。14年前、千葉国体でこの種目の実況をする機会を頂いた。その時、解説を務められた協会の会長さんが、『東京ヤクルトスワローズの青木宣親選手が打ったヒットの数だけ用具を寄付してくれたんですよ』とお話されて、初めて青木選手の慈善活動への取り組みを知った。チーム内外で出来る事に真摯に向き合い、常に全力であり続けようとした姿に、ただただ頭の下がる思いだった。稀代の安打製造機、プレイヤーとしての活躍はもちろんだが、ユニフォームを脱いだ普段の青木宣親さんに慈善活動の事も含めて色々お話を伺ってみたかった。

レジェンドの素顔

 プレーでのご活躍は、主にスタンドで、そしてTV観戦でと、遠くから応援してきた店主。実際にお話しできたのは11年前のサンフランシスコでの、あの時だけ。たった一言だけだったが声をかけて頂き、その時感じた青木選手が醸し出す柔らかい雰囲気に、こちらも気おくれすることなく、すんなり取材の輪に入れたのは驚きだった。壁を作らず、誰とでもフランクに言葉を交わせる。これが人間・青木宣親さんの素顔であり、最大の魅力なのかもしれない。だからこそ。多くの後輩が彼を慕い、自主トレを共に行う“チーム青木”が自然発生的に生まれたのだと店主は思う。恐らく。指導は厳しさをもって為された事は想像に難くない。だが、きっとその後のフォローを忘れず、若手が委縮せずに野球に取り組める環境作りがあったからこそ、ヤングスワローズの飛躍はもたらされた。その筆頭が、今季、最多安打のタイトルを獲得した5年目の長岡秀樹選手だったと思う。青木イズム、レジェンドの教えは着実に浸透しつつある。長岡選手に続く若い力も、必ずや来季、大きな成長と共にチームを躍進へと導くに違いない。ここまで燕軍を引っ張り続けた青木宣親さんへの感謝を胸に、青木チルドレンたるヤングスワローズの躍動に期待を込めて、この稿の締めくくりたいと思う。2025年シーズンが、燕軍に、そして若燕たちにとって幸多からんことを願いながら。

今季、見事に打撃開眼!最多安打のタイトルを獲得した長岡秀樹選手

ウルスポをフォローしよう

この記事をシェア

この記事を書いた人

n.b.c.k.703のアバター n.b.c.k.703 フリーランス/スポーツアナウンサー・MLB Journalist

1993年7月:全国高等学校野球選手権西東京大会にて”初鳴き”(CATV)
1997年1月:琉球朝日放送勤務(報道制作局アナウンサー)スポーツ中継、ニュース担当
琉球朝日放送退社後、フリーランスとして活動中
スポーツ実況:全国高等学校野球選手権・東西東京大会、MLB(スカパー!、ABEMA)
他:格闘技、ボートレース、花火大会等実況経験あり
MLB現地取材経験(SEA、TOR、SF、BAL、PIT、NYY、BOS他)

コメント

コメントする

top
目次
閉じる